宇多田ヒカルのオリジンは?

1990年頃の話ですが、

R80をソルトレークシティーからロッキー山脈を越えて東へ車を走らせた時、

カーラジオから流れる曲は

その州によって全く違った雰囲気がありました。

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ワイオミングではカントリーソング

ネブラスカでは美しい調べ

(干し草が束になって転がっている平原や

広大なトウモロコシ畑の風景によく似合うスローな曲)

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イリノイに入りシカゴが近づくと、

どのチャンネルに合わせても都会らしいアップテンポの曲になりました。

イリノイに入った頃、カーラジオから宇多田ヒカルの曲が流れてきました。

しかし、なにか違います。

集中して聴くと、

宇多田ヒカルではなくアメリカ人が歌っていたのです。

それは宇多田ヒカルの「precious」の雰囲気をまとった曲でした。

日本のラジオから流れていた宇多田ヒカルの歌と

勘違いしてしまったのです。

 

「precious」は、

アメリカの音楽シーンの雰囲気をまとった曲」

と思いました。それほど曲想が似ていたのです。

 

その時、私は

「歌手は生まれた時代や土地(彼女は1990年代のニューヨーク)の

養分を吸って誕生する」

「一人の歌手の誕生は育った国とその風土の空気に拠る」と

宇多田ヒカルの歌のオリジンはこのアメリカNYから、と感じました。

 

 

 

鴻上尚史さんの選考基準から 「危うさの認識」

 

先日、TVで劇作家鴻上尚史さんがオーディション選考の基準として、

「役柄から自然にこぼれ落ちる何かを持っている人、を選ぶ」

と語っていました。

例えば、清純な役柄を演じても、

演じきれない中に、その演じる人が本来持っている個性としての色気が、こぼれ落ちるとか。

 

私は様々な方の話を聴く機会があります。

それぞれの人が明快に自分の主張をします。

それはそれで根拠のある主張をなさいます。

それぞれの方の話を聞いていくうちに、

物事には捉え方により正反対の見方が成り立つ場合もあるのだ

と気が付きました。

 

また、

「それぞれの主張には正反対の意見が成り立つ危うさ」

が付きまとうということ。

私は、その危うさを認識しながら自分の主張の客観性を成り立たせる、

つまり、

「主張がある人は、まず自分の主張と反対の意見を知る」

それが自分の主張を保証する担保のように思えるのです。

 

「危うさを認識していない、若しくは危うさを分かっていながら知らない振り」

をして主張する人は、情勢が変われば衣替えのように、

いとも簡単に自分の考えや主張を脱ぎ捨てる危険性、

を秘めているように私は思えるのです。

 

『「危うさがある」という自分の主張への含羞さがこぼれ落ちる』

思想家や政治家に

出会いたいものです。